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日々平穏

二次小説とか日記を気まぐれに書いてみるつもりです。

闇の旅路 13

 壁面に大きく取られた窓から暖かな陽光が差し込み、毛足の長い濃い赤の絨毯に立つ身を優しく包み込む。
 広々とした間取りに、部屋の雰囲気と場所を弁えて配置された家具が適切な順番に並んでいる。


 脇にはロフトのような場所に作られた本棚。収められた数々のハードカバーは、この場に相応しく教育に関係するものが多い。
 そして今し方、数人が潜りぬけた両開きの重厚な扉から、閉じられた拍子に響いた音があたりに反響しながら徐々に消えていく。
 広々としたそんな空間で、五人の人物が静かに顔をつき合わせていた。
 近衛近衛門、高畑・T・タカミチ、エヴァンジェリン・A・K・マクダウェル、ラピス・ラズリ、そして、テンカワ・アキト。
 つい十数時間前に顔を合わせた面子に一人を加え、学園長室に静かな緊張感が満たされていく。
 「して、どういった心変わりかな……っと、それを聞く前に名前を聞いておこうかの」
 昨日は聞きそびれてしまったしの、などと自分の額をピシャリと軽快な音を響かせながら小突く様は、正しくアキトが前回目撃したはずの威厳を明後日の方向に忘れてきていた。
 その様子を、呆れ顔で眺めるアキトとラピス以外の面々。
 これをもって漸くアキトは、この姿こそが近衛近衛門の真実の姿であると理解した。
 「……テンカワ・アキト。この子の名は、ラピス・ラズリ。とりあえず、そちらから聞きたいのはこれだけか?」
 「とりあえず、儂からはそれだけじゃな。あとは、テンカワ君。君の心変わりの理由を聞くだけじゃよ」
 朗らかな笑顔と共にそう宣う翁に、アキトはゆっくりと自分の素性と麻帆良に辿り着いた経緯を語り始める。当初の予定では、語るつもりのなかった己の過去を。
 何故、語る筈のなかった話が語られるに至ったのか。その原因を知る為には、少しばかり時を遡る必要がある。
 良いものと悪いもの。
 そう表現されてアキトに告げられたダッシュからの報告。
 良いものは、ユーチャリスの現状やダッシュの一存で遂行された、この世界で必要となるだろう工作の類に関する報告で、それなりに益があった。しかし、悪い方はアキト達にとって予想以上のものだった。そしてそれこそが、不本意ながらも今の状況へとアキト達を突き動かす事へと繋がった。



 学園長室へと赴く前、遡ること数時間。
 「遺跡が、消えた?」
 大きく荒げられる事はなかったが、アキトの声は明らかに動揺が色濃く見え隠れしていた。
 「はい。格納庫に固定していた遺跡が、突如活性化。同時刻、極寒遺跡へ調査に向わせていたバッタからも入電。極寒に安置されてたコアユニットも同じく活性化、との報告が入りました。バッタからの報告のおかげで、二つが共鳴するように明滅しているという所までは容易に推測できたのですが、対応を考える間も無く、格納庫に保管していた遺跡をロストしました」
 ダッシュの報告を補うように、その瞬間の映像がアキト達の眼前に映し出されている。
 信じがたい内容ではあるが、このように揺るぎ様のない証拠を付き付けられれば信じるより他ない。
 「原因は、俺か?」
 「不明です」
 「推測でいい。聞かせてくれ」
 短くない時間を共に歩んできたからだろう。アキトにはダッシュが遺跡の消えた原因に関して、とりあえずの結論に至っている事が手に取るように解った。
 オモイカネ'という自己進化し続ける人工知能は、思考の根底に根付いたテンカワ・アキトをサポートするという行動理念を無意識に実行してしまう。誕生当初は未熟だったそれは、今では彼の精神面をも気遣う程に成長を遂げていた。
 そしてそれは、麻帆良に飛ばされる以前からで、アキトも良く知っていた事柄だ。
 故に今回のようにアキトが気に病むだろう事柄に対して、敏感に反応してしまったダッシュのその精神性こそが、逆にアキトが隠し事を簡単に看破する結果に繋がってしまった。
 「ですが」
 「ダッシュ、お前が俺の事を心配してくれている事は十分にありがたい。だが、遺跡に関連する事は、知っておかなければ今後の行動にも支障をきたす。聞かせてくれ」
 否定を重ねるダッシュの本心は、アキトが持つ罪の意識をこれ以上増やしたくない一心だった。だが、アキト自身がそれを踏まえた上で聞くというなら従うしかない。非常に不満そうにではあるが、自身のデータバンクに記録されたイネスの研究データを元に導き出された内容を渋々ながらも口にした。
 「……遺跡は、時間と空間に影響されません。つまり、極寒遺跡から持ち出されても機能に何ら弊害がない事は、アキトも良く知っていると思います。今回は、その性質が裏目に出た結果、という可能性が高いかと」
 「というと?」
 聞かされた内容は、アキトも良く知る事柄。ナデシコに乗艦していた頃に、イネスから昏々と説明を受けた記憶があった。
 しかし、その事と今回の内容が明確にアキトの中では繋げる事ができない。だから、自然と先を促す言葉がアキトの口からは出ていた。
 「それを説明する前に、アキトはこの地に来てからボソンジャンプを行いましたか?」
 「一度」
 この世界において、おそらくA級ジャンパーはアキトのみ。つまり、遺跡に直接アクセスできるのはアキト以外に存在しないはず。その事を考えれば、遺跡が活性化した理由はアキトの行ったボソンジャンプ、それに起因する可能性が高いのは火を見るよりも明らかだ。
 話を先へ進める前に、確認の意味も込めてダッシュはそれを聞いた。
 「だが、それが今回の件に関係あるのか?」
 「はい、恐らくそのジャンプが遺跡の消えた原因かと。詳しい時間も覚えていれば聞きたいのですが」
 アキトは麻帆良へジャンプアウトしてから時間を確認する暇などなかった為、当然答える事ができない。
 その事を察して、答えを返したのはこの場にいるもう一人の少女、エヴァンジェリンだった。遺跡が絡めば自分が話に加わる事など無いだろうと高を括っていただけに、意外な場面での出番に、実は本人が一番驚きを感じていた。
 「確か、日付が変わって少し経った位の時間、0時20分頃のはずだ。私がじじぃから依頼を受けたのが丁度午前0時辺りだったから、現場までの時間を鑑みてもそう誤差はないと思う」
 すでに協力関係を結んだ事により、部外者ではないエヴァの発言に対し、ダッシュは何かを思いついたかのように自身の映るウィンドウを彼女へ近づけた。
 もしや、エヴァとの間に結ばれた協定に不満があるのか。
 そんな推測がアキトの脳裏を掠めたが、ダッシュの表情は不満を訴えるような類のものではない。
 では、一体何を。
 本人以外の皆が一様に疑問符を浮かべる中、ウィンドウをエヴァの目と鼻の先に移動させたダッシュは、にこやかに一礼して見せた。
 「キチンとした挨拶をしていませんでしたね。私はマスターの母艦、ユーチャリスに搭載されているオモイカネ級AIのオモイカネ'です。気軽にダッシュ、と読んで頂いて構いません。ちょっと我が侭なマスター共々、これから宜しくお願いします」
 最後に付け加えられた余計な一言にアキト眉根が若干寄せられたが、何の事は無い、皆の危惧を余所に行われたのは単なる自己紹介だった。
 しかしエヴァのみは、その機械とは思えぬ人が如き振る舞いをして見せるAIの姿に、記憶で見て知っていたにも関わらず驚きを隠せなかった。いつだったか、数多ある彼女の蔵書の中で見かけた一説――行き過ぎた科学は魔法となんら大差がない――を、ふと思い出してしまう程に。
 「あ、あぁ、宜しく頼む。私の事は好きに読んでくれ。しかし……お前とのやり取りは本当に人と話しているでは、と錯覚してしまいそうだな」
 「そう言って頂けると嬉しい限りです。まぁ、今はその様な事より、話を進める方が重要ですので、詳しくはまた後ほど」
 「そうだな。すまない、続けてくれ」
 申し訳ありませんと頭を軽く下げてから、再度全員が見渡せる位置に戻るダッシュ。
 そして、何処まで話したかを思い出しながら、再び見た目相応の少女らしい声を辺りに響かせる。
 「えっと……時間を聞いた所でしたね。そう、格納庫に安置していた遺跡と極寒の遺跡が共鳴する様に活性化を始めたのが0時24分だった事から、かなりの可能性でアキトが遺跡にアクセスした時間と同じだったと考えられます。そして、このアクセスこそが今回の遺跡消失の鍵である可能性が高い」
 鍵、という核心に迫る言葉を切欠に、場の空気が一段と張り詰めたものになる。
 その中でも、特にアキトの纏う空気は周りよりもさらに重かった。
 己が原因で、遺跡という災厄を振り撒くばかりの存在をこの世界のどこかに放り出してしまった。
 アキトにとって、それは赦し難き失態。
 知らず手には力が篭る。
 もし素手だったならば、爪が肉を食い破って真紅の液体を滴らせていたのは間違いない。
 さらにそれほどの激情は、当然の如くアキトの内面を昏い負の感情で満たしていく。かつて、宿敵を屠る事のみに己のすべてを傾けていた頃のように。
 しかし、いち早くそれを感じ取ったラピスが、骨が軋む程に握りこまれたアキトの左手を両の掌で包み込む。伊達にアキトとリンクを年単位で繋いではいなかったラピス。特にアキトの負の感情に関しては、誰よりも深く、長く触れていた経験が、彼女にこのような行動を取らせていた。
 何故、昂ぶったアキトの左手に、包み込む様にして触れたのか。
 それは、ラピスの感情が全く揺れ動かなかった時期、アキトも今よりずっと不安定だった当時、イネスがそれぞれの診察の際に精神的に不安定な2人に対して取った対処法だった。その過去を思い起こし、有効かもかも知れないとの判断を元に真似てみたのだ。単なる物真似ではあったが、殊のほか効果は高かった。
 激しく燃え上がるかに思われたアキトの憎悪は、ラピスからもたらされた微かな温もりが伝わるにつれて徐々に沈静化していく。
 それは、誰でもが出来る事ではない。ラピスだからこそ出来た事だった。
 「助かった、ラピス」
 アキトからの言葉に、ラピスはただ首を左右に振るのみ。そうする事こそが、己の存在意義だと主張するように。
 「では、アキトも落ち着いたようですし、続きを話しますね」
 アキトの金色の瞳に、理性の光が見られるのをしっかりと確認してから、ダッシュは続きを話し始めた。その表情には、一瞬、本当にほんの僅かにだが嫉妬を感じさせるものが浮かんで、即座に消えた。
 「恐らくですが、今回のジャンプにおいてアキトは、無意識に格納庫に保管されていた遺跡へとイメージを送ったはずです。しかし、そのイメージに対して極寒に安置されていた遺跡も反応してしまった。本来あるはずの無い二つの遺跡が同時に起動してしまった事によって、今回のような共鳴現象が引き起こされた、といった所でしょう。あくまで推測にすぎませんが……」
 そして、此処からが最も確信へと迫る部分だった。
 「消失した遺跡ですが、これを見てください」
 映し出されるのは、つい先程も見せられた遺跡が消える瞬間。
 極寒遺跡内部が映し出されてはいるが、数分前に見た映像となんら違いはない。アキトには、ダッシュが何を意図してそれを見せたのか理解が及ばなかった。
 「こうすれば良く解るはずです」
 意図して抑えられる光量。
 漸くダッシュが見せたかった理由が浮かび上がるも、それはただ遺跡が活性化しただけでは絶対に説明がつかない現象だった。
 「極寒遺跡のコアユニットが、ぶれている?」
 言葉の意味する通り、極寒遺跡内部に鎮座するコアユニットに重なるようにして、半透明ではあるが確かにコアユニットがもう一つ確認できる。
 「おしいです、アキト。遺跡はぶれているのではなく、二つの遺跡が共鳴しあった結果、両者が重なろうとしたのです。それを裏付けるように、同時刻の格納庫の様子がこちらです」
 そこに映し出されたコアユニットはあろう事か、その存在が奇薄となっており、反対側の壁が透けて見えていた。まるで、この世界に溶け込もうとでもしているのでは、と錯覚しそうになるその現象は、実際に目にしているにも関わらず俄かには信じ難い光景だった。
 「つまりです。時間と空間に影響されない遺跡は、その特性ゆえに己等を同一の存在と認識し、陳腐な言い方ですが融合しようとした。しかし、そのような機能は遺跡に備わっていない。結果、何らかの要因を切欠として、我々が持ち込んだ遺跡はこの時間軸から弾き飛ばされる事になった、という訳です」
 「弾き、飛ばされた?」
 そのような事が、実際にありえるのだろうか。
 現実に格納庫に保管されていた遺跡が跡形もなく消え去っているのだから、事実以外のなにものでも無い。信じられるか否かは、別として。
 「まぁ、弾き飛ばされた、というのは、この場所から消えた事に対するこじ付けみたいなものなので、適切な表現かどうかは微妙な所です」
 如何に世界最高の頭脳と謳われたイネス・フレサンジュの研究データを全て内蔵しているとはいえ、遺跡は未だ未知の部分が多く残る物体。ダッシュに可能なのは、始めにも述べた通り、起こった事象に対して推測を立てる事のみ。それ以上は過剰な期待だ。
 「何というか、私たちの持ち込んだ遺跡が、この世界の遺跡に無理に言い寄って手痛いしっぺ返しを貰った。女性に平手打ちを貰った、不幸な男性みたいに思えた為に、弾き飛ばされたなどといった表現になってしまっただけなので、あまりこの言い回しにこだわる必要はありません。ただ単に、消えたという表現の方が正しいかもしれませんし」
 「そうか…」
 場の流れに逆らわない、懇親の一撃!
 自画自賛とも取れる拍手喝采を己の内側で鳴り響かせるダッシュだったが、この程度の冗談では今のアキトには見向きすらして貰えなかった。その反応にいじけたくなる心をグッと堪え、気付いてさえ貰えなかった空しさを胸の奥に仕舞い込みつつ、ダッシュは平静を取り繕いながら報告を続ける事を選択する。内心では滂沱の涙を流しつつも。
 「はい。それと、駄目押しのようになってしまいますが、消えた遺跡の所在は今のところ検討もつきません。遺跡の性質を考えれば、現在、過去、未来、どの時間軸にも飛ばされている可能性があるだけに、個人の力で探し出すには些か時間が必要かと」
 時間が掛かる、程度で済む筈がない。
 かつてアキト達がミスマル・ユリカの提案で、機動戦艦ナデシコを利用して遺跡を外宇宙へと廃棄しようとした愚行のように、どこに遺跡が存在するのかが判明しているならやり様もあった。しかし、アキト達が現時点で晒されている状況は、全く手掛かりがない上に何処から探せばいいのか、何から始めればいいのかすら見当がつかない。
 さらに絶望的な事に、本当に最悪な状況というものは未だ語られずにいる。
 今でさえ手を拱いている状態であるにも関わらず、可能性の上ではさらに上がある。口にこそしないが、その可能性についてはこの場に集う全員の脳裏に、寸分違わぬ内容が思い浮かべられていた。
 持ち込んだ遺跡がこの世界からも弾き出されてしまった、という最悪の可能性が。 
 「そう深刻な顔をするな」
 極限まで中心へと寄せられた眉に、横一文字に結ばれた唇。近寄りがたいとしか表現のし様がない雰囲気。しかし、遺跡を追いたくとも、追いかける事すらできない場所に飛ばされてしまったかもしれない。そんな予想がアキトに重く圧し掛かる中、殊更に軽い口調でエヴァの声が紡がれてゆく。
 「お前には進む他に道はない。ならば、今此処で無駄に悩むよりも、我武者羅にでも前へ進め。今までもそうしてきたようにな」
 諭すようでいて、突き放すような口調。
 アキトにしてみれば下手に慰めの言葉を貰うよりも、原初の想いを喚起させるこの物言いは限りなくありがたくあった。
 エヴァの言葉に触発されて、徐々にクリアになっていく思考。そして、静かにアキトは己に対して問い掛ける。
 今更、何を迷う必要がある。己の復讐の道程はそれ程に軽いものだったか、と。
 当然その答えは、否。
 この程度の事で折れてしまうほど、アキトの想いと信念は柔なものではない。
 そう確信するのに連鎖して、思考が通常の状態に回帰し始める。
 途端、アキトには今何をすべきか、何が自分の復讐を果たす為に必要となるのか。それが脳内へと怒涛の如く列挙される。その中の一つ、まず手始めに選ばれたのは、利用しやすそうな、それでいて中々に規模、影響力のある組織の利用方法を麻帆良に当てはめてアキトは考える。
 その顔に、何時の頃から張り付くようになった、狂笑を浮かべながら。
 
 


 そんな、学園長と再び会談持つに至った経緯を思い起こしながら、アキトは自分がどういった存在なのか、どうして麻帆良に辿り着いたのかを順を追って話して聞かせた。
 当然、聞いたことも無いような荒唐無稽な内容に、学園長達はいい顔をしない。
 対して、エヴァと相談して決めた内容を全て語り終えたアキトは、目の前で訝しげな顔を隠そうともしない老人に対して溜め息を零したくなるのを必死に堪えていた。
 ただ、自身も逆の立場なら全く同じ反応を示したに違いないだけに、怒る気には全くなれない。
 そして、場に満ちるのは沈黙。
 そんな状況を見かねて口を開いたのは、見るからに仕方なくといった雰囲気を纏ったエヴァだった。
 「じじぃ、お前達がこの話を信じるも信じないも勝手だ。しかし、忠告はしておいてやる。全てが真実だと」
 「ふむ。では、逆に問うが、エヴァンジェリン、お主は彼の記憶を見たのかの?」
 口にしてはみたものの、それを前提としたとしても信じ難いらしく、学園長の顔には改竄された可能性を暗に尋ねているも同然の表情が浮べられていた。
 学園長の表情の意味する所を正確に読み取っているアキトとしては、己の記憶を覗かれるのは出来る限り遠慮したい。無責任ではあるが、エヴァが言い包めてしまう事を期待してしまうのは仕方がない事だろう。ただ、二進も三進もいかなくなった場合に限り、最低限の内容のみを開示する事態も想定してはいる。
 可能な限りそのような事態に陥るのは遠慮したい、というのが彼の本音だったが。
 「見た」
 アキトが無駄に頭を悩ませている間も、場は止まらずに進行していく。それが本人の預かり知らぬ場所でないのは、数少ない救いと呼べる物だろう。
 「なれば、改竄されているにせよ、いないにせよ、我々も見た上で判断を下したと思うのが道理ではないかの」
 鋭く突き刺さるような視線は、言葉よりも如実に学園長の内面を表していた。
 一人も二人も変わらんだろう、と。
 しかし、その考え方が、その態度がエヴァには心底気に食わなかった。
 記憶とはつまり、生き様であり、心を、思考を、その人物を構成する全ての根底に深く関わるもの。己の意思で語るならいざ知らず、今の学園長のような心持ちで侵していいものではない。
 自分はどうなのか、と尋ねられると後ろめたい部分もあるが、とりあえず今はその事は棚に上げ、エヴァはどう反論するべきか頭を悩ませる。
 ただ普通に言葉を重ねた程度では学園長が引き下がらないのは明白。
 そもそも、学園長には立場というものがある。
 アキトの話を聞いたままに鵜呑みにするなど、麻帆良を統治し、守護する立場の人間が軽々しく選んでよい判断ではない。その事を嫌というほど理解しているだけに、どう切り出すのが効果的か、エヴァは膨大な数のシミュレートを重ねていく。
 1分にも満たない時間だったが、取捨選択を幾度も幾度も繰り返し、彼女は適切な解を絞り込む。
 そして、ゆっくりと一度まばたきして見せると、次に開いた瞳には閉じられる前にはなかった、強固なナニかが宿っていた。
 「貴様の立場ならそうしたいのも山々だろう。しかし、それを踏まえた上で、私はやはり止めておけと言っておいてやろう。変質させられたくなければな」
 「どういうことじゃ?」
 シミュレートの結果は、一部の情報開示による意識の先導。常套手段ではあるが、悪くない選択だった。
 何より、今回の会合で初めて学園長が眉に隠れた双眸を見開いた事からも、その効果の程が窺える。
 「なに、奴の記憶と心は常に自身すらも焼き続ける程の憎悪で埋め尽くされている。お前達程度の脆弱な精神で軽々しく覗こうものなら、逆にその憎悪に焼かれる結果になる、と言っているだけだ。最悪の場合、奴の精神の影響を受けて己のアイデンティティが変質してしまう、なんて事もありえるぞ。それでも見たいというなら無理に止めはせん。好きにしろ」
 何かをしたい、させろと一方的に詰め寄る者に対して、ある一定の情報を与えたうえで選択権を与えられたように錯覚させる。その実、一方を取る事によるあまりにも大きなリスクに、発言した者にとって有利な選択肢以外を余程の事がない限り選べないように誘導する。
 この場におけるリスクとは、記憶に触れる事により発生する精神干渉にも似た作用。
 自覚する事もできずに、変わってしまう。ある程度頭の回る人物に対して、蹈鞴を踏ませるには十分だった。
 「それ程なのかね?」
 「ならばじじぃ、貴様ならどんな精神状態だったらできる? 己が復讐のために万を超える無関係な一般人を殺すなどという所業を」
 どれほどの憎悪を身に宿せば、そのような大量虐殺を成し得る結果に繋がるのか。
 考えた事すらない状況に、学園長達の表情が俄かに曇る。しかし、どんなに想像力を働かせても、アキトが垣間見た光景がどんなものだったかは欠片も浮かばない。
 しかし、それは当然とも言えた。
 殺してしまいたい程の憎しみなど抱いた事もない者が、アキトの経験を話を聞いただけで連想してみるなど、土台無理な話でもある。
 それにエヴァにしても、学園長達にアキトの想いを伝えたかった訳ではなく、それを起爆剤にして、未知の何かを内に抱えるアキトに対して警戒心を植え付けたかっただけだった。
 想像できない程の激情。
 それに触れてしまったら、エヴァの言う通りの結果になる可能性が本当にあるかもしれない、程度の。
 なぜ、そんな物を2人に植え付けたかったのか。
 それは、人を躊躇させる為に必要なのは、"かもしれない"程度の疑惑で十分だからだ。そして、一度止まってしまった歩みを、もう一度踏み出す作業は思いのほか重労働だ。さらに、その進行方向が目と鼻の先すら未知なる闇に包まれた道程なら尚更に。
 今の場面で、エヴァの策略どおりに欠片程ではあるが警戒心を抱いてしまった2人から、強行してまでアキトの記憶を見たいと思う感情が下火になるのは当然だろう。
 何よりも、信じる信じない以前に、学園長達には学園の平穏を守る義務がある。だが、この状況下において、たかだか侵入者一人に対して、己を投げ出してまで賭けに出る必要など微塵もない。これが、麻帆良の存続を危機に追い込むような状況であればまた話も変わってくるのだが、今はそうな事態では決してないのだからあえて危険な賭けをする必要などどこにも無かった。そんな極端に言ってしまえば逃げにも似た思考がちらりとでも浮かんでしまった彼等には、もうアキトの記憶に拘る理由はなかった。
 「そうなると、何か他に君の話が真実であると証明するものはないかの? せめて、儂等が納得できるものを出してくれんと、信じる信じない以前の問題じゃろうて」
 学園長の尤もな言葉に、アキトは確かにと殊勝な表情を見せる。尤も、このように返される事も当然予測していただけに、焦りや戸惑いは一切見えない。
 ただ、抑揚のない声が淡々と学園長室に響くのみ。
 「ペーパーナイフみたいなものでいい。借りられるか?」
 たかがナイフ、されどナイフ。
 この一本のペーパーナイフを渡した所で、アキトが立場的に優位になる訳が無い。けれども、学園長は僅かばかりだが渡していいものか、と迷ってしまう。
 かといって、断ってしまえば、証拠を示そうとしているアキトの意思を無碍に否定してしまうかもしれない。そのような二択を、思考の上では迷ってみた。
 が、気が付けば学園長は自身の座る執務机の一番上にある引出しから、精巧な細工が施された銀製のペーパーナイフをアキトへと手渡していた。
 内に渦巻くあらゆる感情より何より、怖いもの見たさの好奇心が勝った瞬間だった。
 「すまない。少し汚れてしまうが、かまわないか」
 「かまわんよ。それで君が儂等に証拠を示してくれるのであれば」
 自分でも驚きの行動に、学園長は己の声に違和感はないか、と意識せずにはいられなかった。
 幸運にも学園長が危惧した事は見抜かれること無く、解っている、とだけ返しながらアキトがナイフを受け取る。
 内心で安堵の溜め息をつく学園長を余所に、ナイフを受け取ったアキトは踵を返して応接用のテーブルに向うと、備え付けられていた灰皿を手に取った。ガラス製の透明なもので、安っぽいドラマなどなら鈍器で登場しそうなサイズのもの。当然、アキトは鈍器で使うつもりはなく、手に取ってそのまま学園長の執務机の上へと置いた。
 何故このようなものが必要になるのか疑問に感じる学園長達だったが、喉元まで出かかったそれを出す事無く、アキトの行動を細部まで見逃さずに観察する。
 すると、動作の端々に見え隠れするのは、ある一定の位階以上の者のみが見せる洗練された動きの数々。それに感嘆の念を抱きながらも、アキトがいったい何を見せてくれるのか、と不謹慎だと判っていても学園長はある種の期待を抱いてしまう。
 麻帆良にとって害がないと決まった訳ではないが、エヴァ程の存在が擁護し、しかもこれほど謎に包まれた人物に対して興味を抱くな、という方が難しかった。
 そんな学園長の心中など気に掛ける事なく予定調和の行動を続けるアキトは、借り受けたナイフを右手に持ち、空の左手を広げた状態でちょうど灰皿の直上に掲げる。
 どうするのか、と訝しげにアキトへ視線を向ける二人の目の前で、残像を残すほどの速度で右手に握ったナイフをアキトは振り下ろした。
 ここにきて。
 一瞬だが、そんな考えが脳裏を過ぎる。
 「テンカワ君、君は一体何を考えておるんじゃ! すぐに手当てをせんと」
 振り下ろされたナイフは掌を深々と切り裂き、しとどに流れ出る血液の量からして浅い傷ではない。
 しかし、痛みを全く感じていない。
 斬られた張本人は、そんな無表情を保っていた。
 そう、アキトは借り受けたペーパーナイフで、己の左掌を深々と切り裂いて見せたのだ。
 「こんな傷など、どうでもいい。血を見てみろ」
 こんな、などと軽々しく吐き捨てられる程に軽い傷ではない。すぐにでも適切な処置が必要のはずだった。
 見ろと宣言された灰皿に溜まる紅く輝く液体を見るまでは、確かに彼等はそう思っていた。
 「なんじゃ、コレは」
 学園長よりも先に灰皿に溜まった血液に眼が行っていたタカミチは、すでに言葉を上げる事すら忘れてそれに視線を釘付けにされている。
 遅ればせながら、学園長も視線を向けた先にあったのは、当然ながらアキトの流した真っ赤な血だ。普通に考えれば、赤に近い色でのみ構成されているはずの。
 しかし、二人の視界に収まるその液体は、自ら発光現象を引き起こす何かが混入されていた。それも、まるで山奥で見上げた星空のごとく大量に。
 「ナノマシンだ」
 疑問に答えるその言葉に、学園長はさらなる疑問が浮かぶ。
 「ナノマシンとな。しかし、そんな極少サイズの物体が、これほど簡単に視認できるものなのかね?」
 ナノマシンとは、0.1~100nmサイズの機械装置。視認したければ、電子顕微鏡でもなければ見ることなど適わない。ましてや、肉眼で確認できるなどありえるはずがない。
 そう指摘されても、アキトの表情は何ら揺らぐ事はなかった。
 「さっきの話で、俺が人体実験のモルモットにされたと言ったはずだ」
 「では、これがその成果だとでも言うのかね?」
 質の悪い冗談だ。
 そう笑い飛ばしたい学園長だったが、微動だにしないアキトの表情と鋭い視線に、射竦められたように瞬き一つできない。
 「視認できた理由は簡単だ。俺のナノマシンの血中濃度は4割を超えている。それが原因だ」
 薬であっても、度が過ぎれば毒となる。
 ただでさえ人間の体というものはデリケートに構成されている。なのに、その前提を真っ向から覆すようなアキトの体の状態は、誰が見聞きしても異常としか言いようが無い。
 「しかし、それほどの量を体内に混入されたとなると……」
 学園長には、その後に続く言葉を口にするのは憚られた。
 目の前に生きて立つ存在に対して、"何故生きている"などと聞けるはずもない。己と因縁の深い相手でもなく、気心の知れた旧知の仲でもない、出会ったばかりの人物に対してならば余計に。
 しかし、その苦みばしった表情を見れば、余程の愚鈍でもない限り何が言いたいかなど一目瞭然であった。それに、この話の流れで気が付くな、という方が無理である。
 「何故、生きているのか、か? 俺の主治医によると、有力候補は二つある」
 内容が内容なだけに、アキトの語る話に本人以外は誰一人として口を挟もうとしない。
 ただし、ラピスとエヴァに関してはすでに知っている内容だけに、聞くまでも無いという意味での沈黙ではあったが。
 「一つは、病は気からという諺にあるように、生き残って復讐を果たすという強い強迫観念から、体の方がナノマシンに適合するように急速な自己進化を促した」
 まずは一つ、とアキトは自身の右手人差し指を解りやすいように立ててみせる。
 「もう一つは、大量に混入されたナノマシンが体内で競合し、その結果、突然変異を起こして俺の体をナノマシンに適合するように遺伝子レベルから改良した。まぁ、どちらも仮定の域を出ない世迷言も同然に聞こえるが、そのどちらかだろうという話だ」
 候補。
 確かに、アキトの話は候補としては十二分に考えられる内容だった。しかし、あくまでも候補は候補。アキトが実際に生き残れた原因が究明できた訳ではない。期待して耳を傾けた学園長達からすれば、肩透かしを受けたも同義だった。
 「結局、テンカワ君が生き残った理由は解らん、という事かね?」
 「有り体に言ってしまえば、そうだな。しかし、俺は現に生きて此処に存在する。それに対して理由を考えるなら、今の二つが妥当だという事だ」
 納得しかねる、というニュアンスの学園長ではあったが、事実生き残っているのだから文句の付け様も無い。
 ある意味、アキトがもったいつけて有力候補などと銘打って聞かせた事は、彼なりの意趣返しであった。何故生きているなどという目で見られて、何も感じ入るものが無いほどアキトも人を辞めては居ない。
 つまりは、怒気。そこから涌き出た、ささやかな抗議活動のようなものだった。
 「俺の血液を詳しく調べてみたいというなら拒否はせん。しかし、早すぎる技術は身を滅ぼす。その事は、よく覚えておけ」
 それほど納得できないなら、気の済むまで調べろ。暗にアキトは、呆れ混じりにだがそう言っていた。
 200年以上先の未来でさえ、完全に解明されたとは言えないナノテクノロジー。
 アキトはまだ知らない事だが、ナノテクノロジーに関して試作段階に漸く差し掛かり始めた程度の技術しか持たないこの世界において、アキトの体内にあるナノマシンを解析するなど夢のまた夢だ。
 「いや、解析などせんよ。君の話が真実だという事は、この血を見ればいやが上でも納得せねばなるまいて。それに、こんなものを技術者に見せてしまえば、君のような犠牲者が出てしまわないとも言いきれんしの」
 曲がりなりにも組織において上に立つ人物。人というものが持つ闇の一面を良く理解していた。
 それに、間抜けに見える学園長だったが、アキトの血液をただ眺めていた訳ではない。ちゃっかりと解析をかけていたのだ。
 結果、得たモノは、この発光現象を引き起こす物体が、タンパク質、脂質、DNAなどの生体分子を組み合わせ機械だということ。アキトの言を信用するには、十分な証拠と言えた。
 だからこそ、アキトが生きている理由を聞いてみたいなどという好奇心を抱いてしまったのだが。
 「で、君の事はある程度は解った。しかし、何故この場を求めたのかをまだ聞いておらなんだの」
 学園長のこの切り替えしは、アキトが漸くスタートライン立てたという証。
 彼の性格から推察して、この状況まで持って来れれば8割がた成功したといって差し支えなかった。が、念には念を入れての精神で、慎重に言葉を選びながら今度は遺跡についての説明を始めるアキト。
 遺跡の詳しい説明を聞きながら、見る見るうちに険しい表情へと変化していく学園長を目の当たりにしながら、言葉を選んで良かったという感想をアキトが抱いたのは、説明を始めてすぐのことだった。



 どれほどの時間が過ぎたのか。
 アキトがここ、学園長室を訪れた際、太陽はまだ東の空に輝いていた。しかし、今現在、太陽は南から若干西側の空にその威容を輝かせている。
 当然、それに見合う時間が経過しており、時間に見合うだけの遣り取りが学園長達とアキトの間で延々と続けられた。
 まさしく、未知の塊としか言いようのない遺跡に関しては、アキトとしても答えられる事は多くなく、質問されてもイネスが立てた仮説をダッシュからのサポートを受けつつ解る範囲で伝えたりするのが限界といえた。
 これがもしもイネス・フレサンジュだったならば、相手に対して質問するなどという選択肢を選ぶ気力を根こそぎ奪いながら説明のみを続けられただろうが、如何せんアキトに彼女と同じ事はできなかった。
 故にこの場での形式は、アキトが学園長の疑問にその都度答えながら進行するという妥当な線に落ち着いた。
 しかしどのような形になるにせよ、話は未知の塊といえる遺跡が消えたという部分に辿り着く。
 アキトの経験した、苛酷と表現する事すら生ぬるいそれを鑑みるに、遺跡の所在が解らないという事実は簡単に済ませる事のできないものだ。まかり間違ってヤマサキのような狂気を孕む科学者の手に渡っていた場合、どれほどの犠牲が出るか想像もできない。
 それを昏々と説明した上でのアキトの要求は、遺跡を捜索する為に関東魔法協会の持つ捜査網を使っての協力を仰ぎたいというもの。
 遺跡自体の存在の証明に関しては、ダッシュの存在が物を言った。
 この時代では考えられない程に高度に発達した人工知能であるダッシュ。
 そのような存在の空間投影を利用した通信システを介しての登場は、出来の悪いSF映画のワンシーンのようにも見えたが、学園長達自身の存在が魔法使いなどというファンタジーな分、受け入れるのはそれ程に難しいものではなかった。
 無難な自己紹介から入り、保存していた遺跡や火星の映像を次々と表示していく様は、まさしくB級映画そのもの。
 ちなみにだが、アキトが自身の存在を証明する為に血液等という物を用い、ダッシュを出さなかったのは、単に臨場感を優先しての事だった。
 人という生物は、間接的に見た何かよりも、己の目で見て、聞いて、触れた方が納得しやすい。もしもユーチャリスを直接見せつける事ができれば、何よりもその圧倒的な存在感を持ってして、学園長達に有無を言わさず納得させる事が出来ただろう。しかし、ユーチャリスの現在位置は月の裏側。一秒でも早く学園長の協力を獲得したかったアキトとしては、ユーチャリスの移動時間を待つよりも己のナノマシンを利用するほうが効率が良いと判断したという訳だ。
 学園長の人柄、性格を考えれば自身の体を餌にした方が効果的という目論見も少なからずあった。罷り間違って、学園長がアキトの存在を研究対象にする可能性もゼロではなかったが、エヴァの考察を聞いた上で、その可能性は限りなく低いと判断していた。
 そして、一段楽した今、アキト達は学園長室の中心に据えられたテーブルに所狭しと置かれた料理の山を囲んでいた。
 本日の学園長の予定を全てキャンセルして続けられたこの会談は、あまりに長時間に及んだため空腹に耐える事ができなくなったのだ。
 最初に空腹を主張したのがラピスだった事も大きい。
 学園長は、ラピスと同年代の孫を持つ身。加えて、かなりの孫馬鹿。つまり、ラピスほどの容姿を持つ少女の空腹を訴える音を聞いては、何か食事を用意しなければならないという義務に刈られても不思議ではなかった。
 「ラピス、口の周りが」
 普段からアキトと同じ物しか口にしようとしないラピスの食事は、毎回イネス謹製のビタミン剤、あるいは同謹製レーションがそのほとんどだった。必要な栄養補給という点では、彼女の製作物に問題はなかった。
 しかしながら、美味い料理に舌鼓を打つという面においては、やはり無理がある。
 ラピスがそんな当たり前の喜びを得る機会は、アキトの治療が完了するまで一度として無かった。彼女の想いとしては、アキトと同じという事こそが一番重要だったが故に、その有り様こそが己にとって正しかった。しかし、その事を頭では理解していても感情は納得できるものではない。自分がこのような体でさえ無ければ、とアキトが己を呪った事は数え切れないほどだった。
 だからこそ、アキトは体の治療が完了してからは許す限りラピスの為に時間を割き、彼女にだけはなけなしの優しさを与え続けた。
 その一環として、アキトはラピスにまともな食事を摂らせる事から始めたのだが、まだまだ慣れないのか食べ方が些か雑だった。
 「ん?」
 声に引き寄せられるままに振り向いたラピスに、アキトはテーブルにあったナプキンを手に取り、慣れた仕種で汚れた口元を拭う。
 されるがままのラピスだが、その表情はどことなく嬉しげ。先程まで放っておかれた反動か、自分に構ってくれる、ただそれだけの事がラピスにとっては最良の喜びとなって、彼女の未発達な心を満たしていた。
 だが、そのような光景を目の前に、席を同じくする学園長とタカミチは驚き以外の感情が出てこない。
 つい先程までは、己以外は全てが敵。
 そう言わんばかりの空気を放っていたはずの男が、甲斐甲斐しく少女の世話を焼く姿を見て出てくるものなど、それ以外の何があるだろうか。
 そしてその事は、アキトが学園長の本性に呆れたのと同様に、彼等もそのギャップに己等が下した評価に対して著しい修正を余儀なくされた。
 「お前等、食うものがなくなるぞ」
 驚き、固まる学園長達がエヴァの言葉を合図に再起動を果たしてみると、人数分より多めに用意されていたはずの料理は半分以下に減っていた。ちなみに、学園長達は箸をつけ始めたばかりの時に行動を停止してしまった為、ほとんど料理を口にしていない。
 エヴァにしても、食べる量は見た目相応。消えてしまった料理のほとんどは、アキトとラピスが消費していた。
 体内を駆け巡る、大量のナノマシンによる多大なカロリー消費の弊害。その事を知らぬ、学園長等にさらなる評価の修正を強いたのは想像に難くない。
 そして修正を終えた園長達の視線は自然、健啖家ぶりを見せる2人へと向けられる事となる。
 まずは、アキトが取り分けた料理を、規則正しい三角食べで咀嚼し、嚥下していくラピスへと。
 食べて貰う為に手配した料理だ。用意した側からすれば、それほどまでに一心不乱に食べて貰えれば嬉しい以外の何物でもないはずだった。まるで機械のように一定のリズムで繰り返されるラピスのその様に、気が付くまでは。
 気が付いてしまえば、ラピスに対しての疑問がいくつも学園長の中に浮かぶ。なにせ、ラピスはこの場において、全く自分の意見を述べていないのだから。
 見た目から判断するなら、彼の孫と同程度の年齢のはずの少女が数時間にも及ぶ話――彼女かれすれば、限りなくつまらない内容――に文句一つなく黙っているのは、よく躾が行き届いているのか、はたまた……。
 「のう、テンカワ君。君に関しては先程決めた内容で取り計らうとして、その娘はどうするのかね? まさか、共に連れ回す訳ではあるまい」
 ピタリと動きを止めるラピス。
 今日始めて周りに見て取れる形でラピスが反応を示した瞬間だった。表情こそまだ人形のように無表情だが、内心ではアキトが自分をどうするのか気が気ではない。
 「ラピスは、可能なら学校に通わせてやりたい。俺の都合で引っ張りまわした所為で、義務教育を全く受けていないのでな」
 「ほぅ、学校とな。本気かね」
 瞬間的に学園長の脳裏に人質、という単語が浮かぶ。
 まだまだ、互いに信頼や信用を築けたわけではない。そんな自分達の関係に対する保険として、年端も行かぬ少女を利用する。
 嫌悪を感じる考え方ではあるが、その分効果の程は抜群に見込めるだろう。
 「君は、それで良いのかね?」
 仮にも近衛近衛門は麻帆良における教育者のはしくれ。自らを彼女の親と自称するのに、それに反する道具的な扱いを見過ごすなど出来なかった。
 なにより、アキトの言葉を受けて、恐怖の色をその金の瞳に浮かべたのを見てしまった身としては。
 「じじぃ、貴様何か勘違いしてないか?」
 「どういうことじゃね」
 普段より少し硬質な声に、エヴァは自身の予想が正鵠を射ていた事を自覚して溜め息を溢す。
 「貴様は、二人の関係を勘違いしている。お前の考えているそれは不正解だ」
 「人質、ではないと言うのかね」
 「違う」
 状況やタイミングを考えればそう勘違いしてもおかしくはない。しかし、もしアキトの言葉がその通りを意味を持って使われていたならば、ラピスの瞳に恐怖など浮かばなかった。むしろ、嬉々としてその状況に飛び込んだかもしれない。
 ということは、ラピスが恐怖と呼ばれる感情を抱いた原因は違う所にある。
 それはいったい何なのか。
 震える声で、その本当の原因が、ラピス自らの口からこの場に齎された。
 「もう私、要らないの?」
 つまりは、こういう事だった。
 ラピス・ラズリという少女は、人質としてすら利用価値がなく、アキトの傍にいる必要がないから学校などという場所に放り込まれる。世界で唯一の拠り所である、アキトから見捨てられるという恐怖を感じての反応だったのだ。
 「そうじゃない、ラピス」
 抱え上げるようにして横に腰掛けていたラピスを己の膝の上へ移動させ、視線の高さを合わせてアキトは彼女に言い聞かせる。
 「ラピス、お前にはもっと色々な世界を見て欲しいと俺は思っている。今まで見てきた物など、世界を構成する上ではほんの僅かなものでしかない」
 「いらない、知ってる」
 アキトにはラピスを見捨てるなどという選択肢は持ち合わせていない。しかしアキトがいくら心でそれを抱いても、言葉にしない限りラピスが真意を知ることなどできない。ましてや、今の二人の間にはリンクなどといった、便利な機能は存在していないのだから。
 込み上げてきた恐怖という感情を起因に背筋が凍りつくような感覚に晒されながら、ラピスは必死になって捨てられまいと首を左右に振って抗う。
 「それは、知識として知っているだけだ。俺はお前に、もっっと多くの人と出会い、色々な出来事に触れて、もっと心を成長させて欲しいと思っている。そうすれば今よりもずっと、ラピスはいろいろな事を感じられるようになる」
 「私、要らなくない?」
 「当たり前だ」
 元々、聡いラピスはアキトの言葉の意味を理解するのも早い。
 途端、駄々を捏ねるように振られていた首がピタリと止まる。
 そして、――意識してかせずかは解らないが――-ゆっくりとした動作でラピスの両手がアキトの顔へと伸び、バイザーが外される。学園長室において、初めて外気に晒された少女のものとは違う、もう一対の金色の瞳。それを、じっと探るような仕種でラピスは覗き込む。
 彼女の覗き込んだアキトの瞳は、ただただ真摯にラピスを見つめ返すのみで、偽りを語っているようには見えない。
 しかし、それを見てもまだラピスの瞳から恐怖の色は取れない。されるがままにしてみたアキトだったが、彼女を安心させるにはもう一押し何かが必要だった。
 「そう疑うな」
 言いながらアキトはラピスの肩に手を置き、コツンと己の額を少女の白い小さなおでこへと重ねるように触れさせる。
 「ラピス、お前は俺の半身だ。俺達は二人で一人。置いて行く事も、必要なくなるなんて事もありえない。本当に、ただお前の成長した姿が見てみたいと思っての提案だ」
 ラピスがアキトと行動を共にし始めてから、最も落ち着いた声音で紡がれたその言葉は、彼女の未だ凍りついた部分の多い心にも確かに響くものがあった。
 捨てられる心配はなさそうだ。なれば、自分は求められた通りに学校という場所に通ってみても良いかもしれない、と心変わりを思わせる程度には。
 「ギュってしてもいい?」
 脈絡の無い唐突なお願い。
 それは、先の火星宙域において懇願された時とは若干違う、探るような怯えた視線での訴え。だからアキトは、此処が学園長達の目の前だとかそういった余計な思考を全て脳内から除外して、その申し出を受けた。少々気恥ずかしくもあるが、ラピスが望むならばアキトには受け入れる以外の選択肢は存在しなかった。
 「あぁ」
 答えると同時にゆっくりと背中に回される白い小さな手と、胸板から伝わってくる子供特有の少し高めの体温。学園長達の視線が集中するのをアキトは感じたが、一切を無視。ただただ、ラピスを受け止める事のみに意識を傾ける。
 対してラピスは、隙間無くピッタリと抱きついたアキトのから伝わってくる温もりと心臓の鼓動に耳を傾けていた。規則正しく緩やかに響くそれは、リンクを繋いでいた頃のように心と心が繋がったかのような感覚を少女に与える。
 実際は、単なる錯覚だったのかもしれない。しかし、確かにラピスには、今は感じられなくなって久しいアキトの心を確かに感じたような気がした。
 復讐に身を焦がしていた過去において、常にアキトの心の大半を塗り潰していた冷たく底の見えない黒ではなく、かすかに残っていた包み込むような暖かな橙を。過去において宇宙を駆け抜けた日々においても極々稀にしか感じられなかったが、それに触れられた日はいつもラピスにとって喜ばしい出来事が起こる事が多かった。
 「……学校、行く」
 「そうか。よく、決めたな」
 未だ胸の中に顔を埋めたまま離れようとしないラピスが、腕に込める力をより一層強くし、さらに体を密着させながらくぐもった声でもって答えた。でも、やはりどこか納得できないところがあるのか、背中にまわした腕を離す気配は微塵も見られない。
 「意外な一面、というやつかの。とりあえず、ラピス君の件は受け賜わったっと言っておくわい。何より、儂の孫程ではないが、前途有望な少女の決意に水を指すつもりもないしの」
 後半の言葉とにやけた表情が発言の説得力を著しく低下させてはいるが、声に含まれる陽の気質が何処となくアキトには好ましいものに感じられた。
 「ならば、来期の麻帆良女子中等部の1-A、というのはどうだ?」
 唐突に飛び出した1-Aというクラスにどのような意味があるのか、アキトには皆目検討が付かない。しかし、この場において唯一の味方で、尚且つ麻帆良側を良く知る関係者の発言には重きを置くべきだという事は彼にも容易に想像がつく。
 「なにか、理由があるのか?」
 「なに、私が在籍するというのが一点。それと、担任は今目の前にいるタカミチだという事がもう一点。最後に、そのクラスには学園長の孫娘も入る予定だ」
 「意味が解らん。別段、俺は脅迫や誘拐といった手段は講じる予定はないぞ」
 確かに世界から悪と認識されたアキトではあったが、外道にまで成り下がるつもりはない。今までの行動を鑑みれば、どうともいえない矜持ではあるが、彼は自分が宿敵と似通った存在に落ちるなど許せるはずが無い。そうなるくらいなら、自らの命を断った方がマシだとさえ考えている。
 「違うさ、アキト。木を隠すなら森の中、というやつだ。1-Aには、こちら側の奴等が固められる予定だ。かといって、大した力も持たないラピスなら、狙われる事無く学園に紛れられるはずだ。それに、私とタカミチの傍にいるから守るのにも適している」
 「おいおい、僕にも立場ってものがあるから、エヴァが考えてる通りにいくとは限らないよ」
 エヴァがどういったルートで来学期の中等部に関する情報を知りえたのか、という部分も追求が必要だったが、まずは自分についての内容を言及するタカミチ。
 ちらりと、学園長に視線を向けて情報漏洩に対する抗議も忘れない。
 「そもそも、僕は広域指導員でもあるからずっと麻帆良に居る訳じゃない。エヴァだってその事は知ってるだろ? まぁ、教師として生徒を守るのは当然だけど、彼女を優遇する事には些か疑問を感じるよ」
 いったい何を企んでいるんだい。
 そんなタカミチが込めた裏の声がはっきりとエヴァには聞こえていた。
 「別段、何か隔意があっての事ではない。ただ、お前達にとっても悪くない提案だと思ったんだがな……」
 声に出していない問いに対しての答えた事に気まずくなると思いきや、ここではそれが日常なのだろう。学園長、タカミチ、エヴァの3人は、全く何も無かったかのように会話を続けた。
 「どういう事だい? ここまでのやり取りからいって、立場的にはどう見てもこちらが有利だと思うんだけど」
 「それは、お前達がアキトの力を目の当たりにしていない分、過小評価をしているという事だ」
 言われて、学園長は先の戦闘を思い起こす。
 確かにエヴァを相手に見せた戦闘能力は目を見張るものがあった。しかし、それでもタカミチを始めとした麻帆良に点在する魔法使い達の力を集結すれば、対処可能な範囲。エヴァがそこまで彼を評価する理由が学園長には今ひとつはっきりとは理解できなかった。
 「何故、という顔だな……まぁ、予想の範疇だ。とりあえず、聞いておけ」
 その呆れたような仕種から、初めからこのような流れになる事を見越していた事が窺えるエヴァは、学園長達の反応を気にする素振りさえ見せない。
 「ラピスはな、先程も言った通り人質などではない、むしろ言ってしまえば逆だ。お前達にとってこそ、生命線となりうる。まぁ、理解できるようになった所で、どうにか出来る問題でもないがな。精々、早く気が付く事だ」
 言いたい事を言いたいように言って、エヴァは口を閉じる。
 その謎掛けのような言葉に、学園長はどうにかその意味する所を探ろうとするも、エヴァが答える事はなかった。そこには、今話したところで一笑に付したくなるような内容だった事もあったが、まず彼らは信用しないだろうと直感が働いたからだった。
 事実、この言葉が意味する本当の所を学園長達が理解する数ヵ月後に、エヴァがこの時には語らなかった理由を彼等は十二分に痛感する事になるのだが、今は関係のない話だろう。



 「さて、これで現段階で決められる内容は全てだな」
 あの後、たっぷり10分ほどし抱き付かれた後、ようやく胸元を解放されたアキトは、未だ思案顔の学園長に対して視線を送る。
 アキトの今後、ラピスの今後、そして遺跡の探索。
 とりあえず早急に決めておきたかった事、その必要最低限は纏まった。これからの各々の対応次第で、良くも悪くも評価が下され、細かい部分を詰めていく必要はあるだろう。
 だが、現時点で決められる事はもうなかった。
 「終わったのなら、さっさと帰るぞ。こんなところ、1秒でもはやく遠ざかりたい」
 思考の海から唐突に引き戻された学園長は、まだ何か聞きたそうな表情をしていたが、その一切を無視してエヴァは学園長室を後にする。
 この場に残ったとしても、アキトが質問される立場になるだけで、全く利益に繋がらない事は目に見えていた。
 「まぁ、いいか。ラピス、行くぞ」
 小さくなっていくエヴァの背中を、ラピスの手を引きながらゆっくりと追うアキト。しかし、扉に差し掛かったところで何かを思い出したように、その足が静止する。
 そして、ゆっくりと部屋に残る2人へと首だけを動かして顔を向けた。
 「先はどうなるか解らないが、とりあえず、よろしく頼む」
 再び量目はバイザーで覆われている為に、どんな表情でその言葉を口にしたのかは解りかねるが、その声音は意外なほどに澄んだものだった。
 「アキト、さっさと行くぞ!」
 「あぁ、今行く」
 声に引かれるようにして、その姿が扉の向こうに吸い込まれていく。
 聞きなれた扉の閉じる音と共に、その姿は完全に視界から消えた。
 「はて、彼等をどう思う? タカミチ」
 「どう、なんでしょうね……判断に困ります」
 学園長の質問に答えるタカミチの声が、まさしく彼の心情を物語っていた。
 昨日と同じ質問、タカミチの返した答えも似通ったものだったが、そこに込められた内容は全く異なった物になっている。
 「話は荒唐無稽。けど、嘘を言っているようには思えません」
 一応の証拠もありますし、と苦笑い気味に付け加えながら続けるタカミチ。
 「何より、話に聞く通りの道筋を辿ってきた人間なら、少女に対する態度があまりにも……人間らしすぎます」
 どんな心境で、聞き及んだ行為を繰り広げるのか。それが、タカミチには理解ができない。
 己が今までに見聞きしてきた、似通った道を辿った人物達は、総じて人として壊れていた。
 戦乱を求め、人を殺す事に餓え、命を奪う事にこそ人生の価値を見出す。いわば、戦いに魅入られたように、戦いを求め続ける。そういった人種ばかりだった。いつのまにか、目的と手段が入れ替わり、手段をしたいが為に目的を建前にする。そして、歪んでいくのだ。
 たまに、違った価値観を持つものも現れるには現れるのだが、アキトを見る限りその例外とも一味違った。
 無理やりにでも言葉にするなら、正気を保ちつつ、狂っている。
 そんな言葉が、シックリとくるのではないか、とタカミチは感じていた。
 「まぁ、彼の本性がどういうものなのかにせよ、確りと見極める必要があるという事だけは変わりません。じっくりと、見させてもらいますよ」
 「じゃな」
 互いに、どこか達観した表情の二人には、先程までの驚きや焦りのようなものは見当たらない。
 そこに、侮りや嘲りといったものもなく、ただ純粋にテンカワ・アキトという存在を見極めようとする強かな賢者が二人存在していた。



 かの会合から1週間という時間は瞬く間に過ぎ去った。
 この世界の情報というものに疎いアキトは、怒涛の勢いで知識を頭に詰め込んでいく。
 平行して、魔法というものが一体どういった技術体系なのか、何が可能で、何が不可能なのかをエヴァから教授して貰ったりと、濃密すぎる時間の使い方をしていた。
 「それにしても、何度使ってみても、魔法という技術は信じ難いものだな」
 「別に全部が全部、そんな感想が得られるものじゃない。現代の科学の方が便利な物だって数多くある」
 「それは、そうだが……時間操作なんて類のものは、俺のいた時代でも成し得なかった技術なんだがな」
 断崖の絶壁ならぬ、海洋に一際目立つ形で聳える塔の頂上、真っ青な海を一望できる場所に立つアキト。
 床には、俗に言う魔法陣と呼ばれるものが刻まれている。
 二人が立つこの場所は、彼女が手ずから作り上げた別荘という略称で呼ばれる施設の中だ。
 日中はラピスと共に過ごす事を中心に、情報収集などに時間の多くを割いている為、修練に関しては基本的な部分しか行えない。それを埋め合せる為に、エヴァが地下の物置から持ち出してきたのが、この別荘と呼ばれるものだった。
 見た目は、ボトルシップを何倍ものスケールにしたものといった所だが、その機能は驚きの一言だ。
 「時間操作は、確かにそう容易く扱えるものではないが、様々な要因を掛け合わせて限定的に行うなら不可能ではない。まぁ、かといって、こいつの機能はまともな人間にはあまりお奨めしないがな」
 そう言う理由は簡単だった。
 今までの会話の端々から解るように、この施設はまともなものではない。
 驚いた事にこの施設を使ったものは、現実の時間での1時間を24時間とする事ができる。つまり、簡単に言うなら浦島太郎の昔話を真逆にしたもの、というのがシックリくる。
 そして、まともな人間には薦めない、という理由もそこにあった。
 24時間を別荘内で過ごしたとしても、現実には1時間しか経過していない。という事はだ、この別荘内で過ごせば過ごすほど、己の現実世界での寿命を縮めてしまう。
 まともな、神経の持ち主ならまず選択しないはずだ。
 しかし、それが解っていてなお、アキトはこの別荘を使う事を選択した。それは不確定要素を取り除く為であり、これから立ち向かわなければならないだろう仕事を円滑に進める為でもあった。
 「さて、始めるか」
 防弾、防刃その他諸々、詰め込めるだけ詰め込んだ多機能コートと白いシャツを傍らに控えた人形の一人に預ける。
 上半身には何も身に付けず、動きを阻害しない標準的なスラックスにしか見えないズボンのみの状態で、アキトは別荘内部の主塔において一際開けたスペースの中心へ。
 入念なストレッチに始まり、体が温まるに連れて徐々に体に対して付加を重くしていく。
 十分に体が温まる頃には結構な時間が経過しており、傷だらけの素肌に浮かんだ無数の汗が肌を伝い、滑らかに加工された石材の上に黒い斑点を刻む。まともな人間なら此処で一息、となるのだろうが、アキトにとってはココからが本番だった。
 機械的だった動きが、流れる水の如く滑らかな動きに変化する。
 それは木連式柔独特の力学と理論。つまりは、木連式柔の形稽古をアキトは始めたのだ。
 「いつまでそうしてるつもりだ」
 視線は未だアキトから寸分も離さず、声だけをエヴァは真後ろの柱の影に向けて放つ。
 「別に、覗くつもりはなかったんだけど……ちょっと出づらくてね」
 「ハッ! 下手な言い訳だな、タカミチ。お前が別荘に入ったのは、アレを始めた直後あたりだったはずだ。気付かれているのが判っていながら、声を掛けられるまで出てこない辺り、いい具合に捻くれてきたな」
 「年を重ねれば、誰だってある程度は捻くれてくるものだよ」
 エヴァの皮肉もなんのその。慣れた調子で物事をあいまいに誤魔化そうとする笑顔と声でもって、さらりとタカミチはそれを受け流す。 
 互いを害さない協定が結ばれたからといって、探り合いが終わった訳ではない。このレベルでの腹の探り合いは、日常茶飯事といえた。故に、お互いに一線を超えない限りは、暗黙の了解としてそれは黙認されていた。
 「それで、決まったのか?」
 「うん、簡単な案件だけどね。手始めにって感じになるのかな」
 背広の内ポケットから取り出された宛名のない茶色い封筒。
 タカミチの右手に握られたそれを、半ば引っ手繰るようにしてエヴァが奪い取り、すぐさま封を切る。
 「この程度、か」
 中に認められた内容にすばやく目を通したエヴァの口から零れた言葉には、驚きも喜びもなかった。そこには予想していた内容が、予想していた通りに綴られていただけ。何の面白みもない結果に、落胆こそすれども、それ以外の感情が表に出る事などありえない。
 対してタカミチはというと、引っ手繰られた手紙よりも何よりも、広間中央にて修練を続けるアキトに意識が集中していた。
 「それにしても、何だか変わった動きだね」
 「私にどんな返答を期待しての言葉だ? それは」
 読み終わった手紙を封筒にしまうかと思いきや、エヴァは折り畳んだそれを、誰も居ない筈の虚空へと突き出す。
 その奇怪な行動を疑問に思いながらも、さして追求する事なくタカミチは質問を重ねる。ちらりと視線を外した先にアキトが形稽古を続けているのを確認しつつ。
 「そうだね、流派位なら聞けるかな、と思ってかな」
 「木連式柔」
 「へぇ、木連式柔かぁ。聞かない流派だね―――ッ!」
 耳に届いた聞こえるはずのない声に、タカミチの心臓が一際甲高い音を伴って弾ける。そのあまりに大きく刻まれた鼓動に、聞こえるはずがないと解っていても、その音が周囲に洩れてはいまいかとタカミチは不安に感じてしまう。
 だが、今必要とされるのは、それらを凌駕する鋼のような平常心。頭の中で必死になって、不安に支配されそうになる自分を偽るも、それは中々に容易なことではない。
 千々に乱れる思考を表情にはどうにか出さず、なんとか周囲の解析へと向ける。
 何が起こったのかを知る為に。
 しかし、つい数秒前までアキトが広間中央にいた事をタカミチは確認していた。これは、確実だ。
 確かにその場所に居たはずのアキトは、誰も居ないと思っていたエヴァの差し出された右腕の先に、気がつけば忽然と姿を現していた。そして先ほどの返答は、ちょうどエヴァの右手に握られた封筒を受け取ろうとしながらのもの。
 何度、振り返ってみても辿り着く解答は同じ。
 まだまだ未熟である事は十分に自覚ているタカミチだったが、流石にこれは想像の埒外といって差し支えない。近づかれた事も、目と鼻の先に居た事にさえも、声を掛けられるまで一切気が付けなかったなど。
 考えれば考えるほどに、畏怖を超えて未知に対する恐怖に似た何かを感じるタカミチを余所に、アキトは静かに手紙の内容を確認する。
 ギリギリその姿を視界に収めながら、もう一度だけと己に言い聞かせながら必死に考えてみるも、タカミチの脳裏に出てくる単語は相も変わらず解らないばかり。そんな中、唐突に掛けられたアキトからの見取り図はないのか、という質問に反応できたのは、様々な偶然が重なっての結果だった。
 「すまない、こちらでも八方手は尽くしてはみたんだけれど……」
 申し訳なさそうに顔を歪めるタカミチを前に、アキトは自分には出来ないだろうその演技に軽い感心を抱いていた。
 かといって、それを口に出して褒め称えるような事はしない。ただ、麻帆良という土地に住まう者に対する警戒をさらに強くするのみ。
 「ラピスはどうしてる」
 「ぐっすりとお休みになれられています」
 何時の間にか、タオル片手にアキトの傍らに控えるように立っていた人形の一人が答えた。その返答に、ほんの僅かだけ口角を歪めさせ、アキトは力の篭った視線を声の主へと送る。
 「心得ております。お任せください」
 アキトには、眠りについたラピスを残し、これから向わなければならない場所が出来た。その事に対して、彼女の安全は命に代えても守ってみせるという意。
 この場所、別荘内において身の回りの世話を言い付けられたから、という理由だけでは説明しきれない崇拝にも似た関係がそこには出来上がっていた。
 創造主である、エヴァに仕えるというスタンスに当然変化はない。ただ、それにプラスしてアキトの為にも、可能な限りやれる事をしたいという想いが芽生えていた。
 例をあげるなら、今この場でタカミチがアキトに対して害する行動を取ったなら、動く壁になる程度の事は瑣末といって差し支えない。
 「そうか。では、行ってくる」
 着々と居場所を築き始めたアキトの麻帆良での生活は、この日この時から本当の意味で始まった。


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  1. 2008/07/19(土) 16:17:11|
  2. 闇の旅路
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